2008年12月31日水曜日

とうとう大晦日

 なんにしても、無事に一年を終える事が出来た.本当にありがたい事である.だから、大晦日にはしっとりと一年を振り返り、新年に向けての決意を固め、期待に胸を膨らませたいと思っていた.でも、遅い時間に起きて、デスクワークをあれこれやって、姪っ子たちがやってきて、賑やかになって、ふと何時かしらんと思う頃には、紅白歌合戦が終盤に差し掛かっていた.姪っ子たちに付き合っての 2 会場で観客数が 10 万人になるというというジャニーズ系のすさまじく賑やかなコンサートを見て、カウントダウンと共に新年を迎えた.観客のほとんどが女性であるのを見て、こんなに女性ばかりで、会場のトイレは足りるのだろうかなどと心配しているうちに新年になった.

2008年12月30日火曜日

女房に命を預ける

 前夜の睡眠時間が 1 時間になってしまったため、東京までの行程のとりあえず最初半分は運転を女房に頼む事にした.私は 3 列シートの最後列に荷物に埋もれてうずくまり、惰眠をむさぼり始めた.ほんの 30 分のつもりが、ふと気がつくと、もう東京都内に入っていた.通常は私が一人で運転する経路で、お客さんになった経験はほとんどなかったのだが、年の終わりにしっかりと女房に命を預けさせていただいた.おかげで、到着してすぐに実家の清掃奉仕に参加する事が出来た.感謝至極である.

2008年12月29日月曜日

嗚呼!年賀状

 郵便局は 25 日までの投函を呼びかけていた.毎年早めに出してしまいたいと思いつつ、今年も年賀状の印刷がぎりぎりになってしまった.データベースにチェックを入れて、家庭用や仕事用、子供用の数種類の図案を作って、夕方から印刷を開始した.プリンタのトレイに一度に 50 枚しかセットできないし、インクも無くなるかもしれない.紙詰まりのトラブルも起きるかもしれない.そんなわけで、なかなか自宅のプリンタから離れる事が出来ない.夜が明けたら午前 5 時発で東京に行く予定でいるために、プリンタの性能が私の睡眠時間の制限要因となった.しばらく面倒みられなくなるウミホタルに餌をやりに行って、旅支度を終えて帰宅して、ようよう床に就いたのは、午前 3 時半だった.起床予定時刻は、4 時半なのだ.年賀状のやり取りの廃止宣言をした人、年賀状をいつの間にか出さなくなった人々も最近増えてきている.来年の暮れはどうしようか.思案のしどころである.嗚呼、年賀状!

2008年12月28日日曜日

伊豆多賀下車

 昨日の夕刻に伊豆多賀駅で下車し、大学時代のサークルメンバーと伊豆多賀駅近くのリゾートマンション 5 階に集った.眼前には初島の見える海がドーンと広がっていた.食材の買い出しを行って準備をして、海鮮鍋をつつきながら、 20 年近い時間のギャップを埋めるべく、話しを始めたら、まことに話題が尽きない.過去の思い出話にも花が咲いたが、大学時代の告白話や大学以降の仕事の話、趣味の話などなど果てしなかった.興味深かったのは、趣味や特技などについては、長い付き合いであったのに案外お互いに知らないことが、まだかなりあったことだ.サークル関連で接点のあること以外には、お互いに突っ込んだ話をしていなかったことに、今になって気付いた.当時は分からなかった人間関係の謎解きが、あれこれできたことも愉快であった.話しくたびれて深夜 2 時に倒れ込むように眠り、朝 8 時に起きるやいなや、朝食がてらふたたび話が始まって、気付いたら夕方になっていた.自宅にはついつい連絡をとらずにいたので、女房のお叱りを受けた.久々に長い時間話し続け、笑い続けた.年の終わりに、心の中を、懐かしくも清々しい空気が駆け抜けた.

2008年12月27日土曜日

巡視船見学会

 午後から、家族とともに海上保安庁下田海上保安部の巡視船見学会に出かけた.保安庁の仕事についてのビデオを見せてもらった後で、停泊中の 2 隻の巡視船の甲板や船内を案内して頂いた.私たち家族は、まず 540 トンの『かの』、つぎに 960 トンの『するが』を見学した.すっきりと青く晴れ渡った空と静かな海を望みながら、甲板から船の舳先越しに港内を眺めると、晴れ晴れと気持ちよかった.かなり高さのある上甲板からは、ふだん経験しないアングルからの下田の風景を見ることができた.船内では調理場やマップルームを覗いたり、ブリッジでレーダー画面を見たりしたあと、機関室も見学させてもらった.家や学校とは全く異なる空間構造の船橋や船室を見て、女房も子供たちも、ずいぶんと非日常的な空間に身を浸すことができたように思う.

2008年12月26日金曜日

またも伊豆多賀

 大学時代のサークル仲間が年末に集うことになった.11 月に亡くなったメンバーの追悼の会でもある.みなそれぞれに多忙であるので、日程調整をはかったら、仕事納めの翌日になってしまったらしい.ほんのひとときの邂逅だが、東北からはるばるやって来る人もいる.場所は熱海の近くにある仲間のひとりの別宅である.住所を聞いて最寄り駅を調べたところ、伊豆多賀駅だった.またも現れた伊豆多賀である.熱海方面に向かう時の、伊豆多賀駅を少し過ぎたところにある『不動トンネル』が、昨日ブログ内に登場した『高熱隧道』掲載のトンネルなのだろうか.地図を見る限り、他に該当するものは見当たらないが、定かではない.私は海産物やら菓子箱やらを携えて、ついに伊豆多賀で下車することになりそうである.

2008年12月25日木曜日

伊豆多賀だ!

 今日、夜の電車で筑波から帰ってきた.熱海から伊東線に乗って、文庫本を読んでいた時のことである.ふいに、文章の中に『伊豆多賀』という文字が出てきた.読んでいた本は、吉村昭の『高熱隧道』で、第二次大戦直前の黒部峡谷で発電所建設のために温泉の噴き出す地帯にトンネルを掘ろうとした人々の話である.富山県が舞台の物語で、よもや伊豆の地名が出てくるとは思わなかったので、びっくりした.日本では、温泉湧出地帯の岩盤温度が摂氏 60 度になる場所でトンネルを貫通させた例は少なく、伊豆多賀で貫通されたものが数少ない例として有名だ、と挙げられていたのである.「お~!伊豆多賀が出てきた」と思って、ふと今どこを走っているのだろうと駅名を見たら、伊豆多賀を出たところだった.馬鹿げた偶然で、だからと言ってどうということはないのだけれど、こういう些細な偶然に直面した時には、そばに人にいてほしいし、その偶然について話したい.話したくてうずうずしてしまうのだ.でも、話し相手はいなかった.だから、ここに書いて、皆さんにお知らせしたいのである.「すごい偶然でしょ!」と.

2008年12月24日水曜日

仁王立ち

 先週、筑波からの帰りに熱海から伊東線に乗った時のことである.終電の2本ばかり前の時間だった.次第に空いてきた車内に乗り込んできたひとりの20歳代前半くらいの男性が、空席の多い車内でしっかと仁王立ちで立っていた.明らかに忘年会の帰りの様子で、顔が赤くて眠そうだった.ここでもし座れば、絶対に寝過してしまうと思って頑張っているのだろう.私にも同様な経験が幾度もあるので、同情してしまった.こんな時に、ちょっと休もうと思って座席に腰をかけると、もういけない.一昨年のこと、沼津方面から熱海に戻ってきて、下田に向かう終電に熱海から乗った時のことである.少々飲んでいたので、結構しんどくて、伊東までなら短時間だから、ちょっと腰かけようと思って、座ってしまった.ところが、次は伊東だというアナウンスまで聞いて一度記憶が途切れて、皆の降りる気配で電車から降りてみたら、なんと熱海だった.伊東でおり損ねて、電車が折り返してしまい、熱海まで戻ってしまったのだった.もう、下田まで戻る術はないので、行けるところまでタクシーで行こうと思った.しかし、いざタクシーで走り出すと、すぐにメーターが5千円を超してしまい、こりゃいかんと思って降り、女房を起こして、伊東あたりまで迎えに来てもらった.あれ以来、私も、飲んだら電車で決して座らない.飲んだら座るな、座るなら飲むな、である.車内で仁王立ちだった彼は、伊東に着くまでに無事に電車を降りたようだった.安心した.

2008年12月23日火曜日

自由な象と鯨

 18 世紀のアウトサイダー的絵師である伊藤若冲が、八十歳台の晩年に描いた大屏風が見つかったらしい.伊藤若冲といえば、今年の 7 月 24 日に出かけた東京国立博物館での『対決 巨匠たちの日本美術』で、とても印象的な 2 つの絵を見た.『仙人掌群鶏図襖』の生々しいまでによく描き込んであってリアルな鶏の姿は何やら怖い感じで、サボテンと鶏という構成要素は現実のものなのに、全体をみると決してこの世のことでないような、不思議な印象があった.『石灯籠図屏風』の方も、まことに奇妙だった.石灯籠がスーラの絵のような点描になっていて、でも、絵の全体は点描ではないので、石灯籠の存在に何だか胸騒ぎというか妙な高揚感を抱いてしまう.日本画とか洋画とか時代とかいろいろな流派とか、そんなものを飛び越えたのびのびしたものを感じた.こんなに面白い屏風絵は、江戸時代にどんな家のどんな空間に置かれていたのだろうか.時を遡って、その空間を覗いてみたくなった.今回見つかった屏風絵は 6 曲 1 双で、右隻に象、左隻に鯨が描かれている.これらは鶏にみられるようなリアリティーとはかけ離れていて、象はブルーナのミッフィーシリーズに出てくるぞうさんのようだし、鯨にはふつうの魚のような背びれがついている.でも、何ともいえずに晴々して、自由な感じがするのだ.「写実なんかもうどうでもいい、海と山にある大きな自由というものを描くんだ!」という感じの、静かだけれどもほとばしるエネルギーが感じられる.人生の終末までに、こんな絵を 1 枚でも描くことができたら、どんなに素晴らしいだろうかと、思わされた.

2008年12月22日月曜日

段ボールのトランスフォーマー

 最近、こちらで顕微鏡を購入した折りに、たくさんの梱包用段ボール箱を業者が置いていった.大小いろいろな大きさのものが山積みになっていた.顕微鏡を構成する部品は多く、精密機器であるために、どの部品も別個に梱包されてくる.そのため、たとえ 1 台の顕微鏡であっても必然的に段ボール箱の数が多くなる.今回は実習用にまとまった数の顕微鏡を購入したため、箱の数もかなりのものであった.これまでの経験では、このような大小の段ボール箱には、いろいろな形状の白い発泡スチロールが組み込まれていて、ゴミに出す時は粉が飛び散るのを気にしつつ、適当な大きさに砕きながら市指定ゴミ袋になんとか詰め込んでいた.今回も、そんな作業を覚悟していた.ところが、箱を開けてみると発泡スチロールの姿はほとんど見られなかった.わずかにコーナーの押さえや、箱のすみの充塡材に使われている程度である.発泡スチロールに取って代わっていたのは、段ボールだった.複雑な立体の顕微鏡部品を箱の中でうまく保持するために、込み入った構造のくぼみが必要になる.それを段ボールをうまく折り込んで組み上げることによって実現していた.しかも、驚いたことには、かつての発泡スチロール片の一塊に相当する段ボールブロックの一塊をほぐすように開いてゆくと、 1 枚の大きなダンボール紙に展開できるのである.組み立てには糊もテープも使われておらず、全てはめ込み式なのだ.コンピューター上で、CAD(コンピューター支援設計) のようなもので設計するのだろうか.ちょっとした芸術品である.いっしょに作業をしていた S さんは「これは、まるでトランスフォーマーのようだなあ!」と感嘆していた.かなり高度な折り紙のようなもので、これができるのなら、たいていの形は 1 枚から組み上げることができるのだろうと思われた.あまりに良くできているので、大きくて形の美しいものを 4 種類ばかり選んで、子供たちへのみやげに持ち帰った.子供等は大変に喜んで、開いたり閉じたり、おもちゃの飛行機や自動車の基地にしたりして遊び始めた.一方、年末のゴミ減らしの時期に、余分なゴミを持ち込まれた女房には、にらまれてしまった. 

2008年12月21日日曜日

ウミホタルとの3ヶ月

 9 月 17 日に採集したウミホタルの飼育を始めて 3 ヶ月が経過した.初代ウミホタルはほぼいなくなり、10 月に飼育下で誕生した『海を知らないウミホタル』が、肉眼で容易に確認できるくらいの大きさ (1-2 mm くらい?)になってきた.狭い水槽内に 50 匹以上は確実に居ると思うのだが、全数の確認は当分難しそうだ.エアコン不使用の研究室で室温条件で飼っているためか、成長はけっこうスローな気がする.海を知らないこの子らが無事に成熟して 3 代目が生まれてくれれば、飼育の甲斐もあるというものだが、まだまだ油断ならぬ状況である.まずは春まで飼育を無事に続けるのが目標だ.そして、できるなら 1 年間飼育を続けて、後につなげたいものだ.

2008年12月20日土曜日

そろそろ大掃除

 職場の忘年会が昨夕終わり、今日から明日にかけては自宅の大掃除だ.私は海水魚の水槽をすっかり掃除し、クサガメの水槽掃除も終えた.海水魚水槽には 9 月に採集したケブカオウギガニとシロウミウシ、それにイボニシたちが残存していて、無事に新年を迎えることができそうだ.カメたちは 7 年以上を経て体も大きくなり、衣装ケースの水槽がいかにも窮屈そうな感じになってきた.しかし、寒い時期にはヒーターを入れたこの容器で我慢してもらわざるを得ない.水槽掃除後は、オーディオ関係の整理やゴミ出しを行い、自宅デスク周辺の片付けも実施した.女房と子供たちは、分担を決めて部屋掃除を始めたので、私は年賀状関係の仕事を進めることにして、オフィスに待避した.やれやれ、これから 1 週間がまことに大変だ.

2008年12月19日金曜日

カジメの寿命

 本日は 1 ヶ月に 1 回のカジメ定期計測日だった.午前中のうちに計測作業を終えた.先月のニュージーランドでの学会では、この 8 年間に毎月潜ってとり貯めたデータを、カジメ人工群落の個体群過程という観点から整理して発表した.全部で 100 回くらい潜って得たデータなので、量も膨大でいろいろな切り口から整理できるのだが、今回は生残率や寿命を中心にまとめてみた.このシリーズの研究での初めてのデータ解析と学会発表だったのだが、面白いことがいくつか分かってきた.そのひとつがカジメの寿命だ.2001 年の年初に 60 株を人工基盤に移植したのだが、いまだに生き残っているものが 3 株あることがはっきりしたのだ.移植した時点で 1 歳だったから、現在 8 歳を超えて、間もなく 9 歳に達することになる.私の知る限りでは、カジメの寿命は最長で 7 年程度と言われているはずだったから、これは驚きである.天然岩礁でなく、高さ約 60 cm の人工基盤上にあって、物理的撹乱や摂餌の影響などを受けにくそうであるのも長生きの要因でありそうだが、本当の理由については今後の調査によって調べるしかない.これまでの計測記録の中では、茎長が 70 cm を超えるものもあったのだが、長生きの個体はいずれも茎がその半分程度の長さだった.小型の方がしぶとく生き続けることが容易なのかもしれない.なぜなのかは分からないが、これも興味深い事実だ.調べるべきことは、まだまだたくさんある.

2008年12月18日木曜日

ウェリントンの風

 昨日の疑問について、ひょっとして Web から情報が得られるかもしれないと思い『ウェリントン・風・傘』でグーグル検索してみた.すると、答えはすんなり出てしまった.まことにあっけないものである.いくつかのサイトで取り上げられていて、下記のものが分かりやすい.
http://www.c-player.com/ac45475/message/20061123?format=time
ニュージーランドの中でもウェリントンはとくに風が強く、傘がすぐに壊れてしまうそうだ.地元の人で日常傘を使う人はまずいないという.あの街で傘をさしているのは旅行者のみらしい.傘を拡げていた私たちがどんなふうに見られていたのかと、今になって想像してみると、気恥ずかしい思いだ.それにしても、日本の方々は世界の津々浦々まで行き渡って、様々な経験を積み重ねておられるのだな、と日本に張り付いている期間の方がはるかに長かったオジサンはあらためて感服してしまった.

2008年12月17日水曜日

ウェリントンの雨

 一昨日から筑波に出かけたら、昨日から雨になった.久しぶりの筑波キャンパスでの雨だった.雨を見ていて思い出したことがある.先月行ったニュージーランドでのことだ.ウェリントンで 1 日だけ雨に降られた日があった.到着して間もない日で、大学院生の I さんと雨の中をこともあろうに道に迷って小一時間歩き回った.私は、知らないところで深刻でない程度に道に迷って彷徨い歩くのは、けっこう好きなのだが、I さんは参っていた.雨の中、わたしは常備の折り畳み傘をさして歩いていた.I さんも自分の拡げた傘の中にいた.私たちは、ケーブルカーから降りて、丘の斜面の住宅街を通って、大学のキャンパスを通って、墓地を抜けて、ハイウェイに架かる陸橋を渡って、そして市街地へと抜けていった.その間、いろいろな人に行きあったのだが、不思議なことに誰ひとりとして、傘をさしている人がいなかった.住宅街から近所に歩き出たらしい女の人も、キャンパスの中の学生さんたちも、公園墓地の中を歩くカップルも、市街地のビジネスマンたちも、ひとりとして傘をさしてはいなかった.皆、レインコートかパーカーのようなものを羽織っていた.あれは、偶々のことだったのか、それともあの土地では傘をさす習慣がないのか、いまだに分からない.そういえば、ウェリントンは『風の街』と呼ばれているそうだ.そのことと関係があるのだろうか.

2008年12月16日火曜日

足に泥がつかない

 下田から筑波大まで 4 時間以上かかる.その間に移動する距離はたいそうなものである.しかし、出発地点から到着地点に至るまで、足にはほとんど泥が付くことがない.大学の研究棟の建物に入っても、宿泊所に予約した部屋に入っても、それらの場所の床を汚すことはまず無い.むしろたまに泥の付いた靴で上がった者があると、その人ひとりが目立ってしまうくらいである.足に泥がつかないということは、私の歩いた場所の地面が全てコンクリートで覆われていたということだ.当たり前のことなのだけれど、そんなに地面を覆ってしまっても、大丈夫なのだろうかと、時々思うことがある.本来太陽の光を浴びるべき地面が覆われているために生態系というものに生じる不都合とはどれほどのものがあるのだろうか.太陽光発電で太陽電池パネルが将来地球の遊休地を広く覆うことになるだろう.本来地面が浴びるべき光エネルギーを奪ってしまっても何も害はないのだろうかと、そんなことが心配だ.そんなことはとっくに誰かがしっかり研究していてくれるのだろうけれど.

2008年12月15日月曜日

携帯ラジオ

 私は、自分が運転していない時には車に酔いやすい.自家用車やバスの中で本など見ようとしようものなら、たちまち気分が悪くなる.どうも俯く体勢が良くないらしい.車の中で地図を見る時はなるべく上の方に掲げるようにする.それでも長い時間見ているのは無理である.そんなわけで、バスの中では本が読めない.東京から筑波に向かう高速バスの中などで、本や論文を読んでいる人を見かけると、つくづく羨ましくなる.長距離バスの中ではずいぶんと時間がある.考えごとばかりしているのも何だか疲れる.iPod にイヤホンを付けて音楽を聴いていても良いのだが、どんなにたくさんの曲を入れておいても、いずれも既知の曲である.疲れている時などに音楽に浸るためなら良いのだが、何かしら新しい情報を頭に流し込みながら時間を少しでも有効に使いたい時には、聞き覚えのある曲を繰り返し聞くのは少し悲しい.役に立つのはラジオである.私の仕事鞄には、いつも携帯ラジオが入っている.イヤホンが本体収納式になっていて、使用時には引っ張って引き出し、収納時にはボタンを押してスルスルと中にしまい込む.FM, AM, TV 音声 を受信できる.バスに乗る時には、こいつが頼もしいし、楽しい.いまどきのイヤフォンと違って、片耳しかふさがれないことにも安心感がある.とくに AM 放送は情報量が多い.ふだん考えもしないような内容を聞くことができる.今夕、東京駅から筑波大に向かうバスの中では『世界の観光地の専門日本語ツアーガイドが現地で行っている観光ガイドをやってみせるシリーズ』というのを聞いていた.今回は、ナイアガラの滝のガイドだった.観光客を楽しませるためによく練られたエピソードとその語りは、大変に興味深かった.授業や自然観察会での話の仕方に活かせるかもしれないと、ちょっと思った.携帯ラジオの出番は他にもある.新幹線の中では、FM ラジオで音楽放送チャンネルを受信することができることもある.それに、何か災害があった時にも、ラジオが身近にあれば、デマに惑わされず情報収集を行うことができるだろう.携帯ラジオは偉いヤツなのである.

2008年12月14日日曜日

ハリガネムシの季節

 バッタやカマキリの姿が見えなくなると、地面のあちらこちらに黒いビニール紐のもつれたようなものが転がっているのが、かなりの頻度で見つかるようになる.水分が無くて光沢があって、とても生き物には見えないのだが、これを水の中に放り込むと、見る見るうちに吸水して膨らみ、のたくり始める.昆虫の腹から脱出したハリガネムシたちが、干涸びた状態で水を待っていたのだ.水を与えられない状態でどれくらい生き続けるのか知りたいところだ.それにしても、不思議きわまりない生き物だ.こんな綱渡りのような暮らし方をして、よくぞこれまで種として存続してきたものだ.寄生生物が寄主を操ることがあるらしいから、ハリガネムシたちも自分たちの都合の良いようにカマキリたちを操縦しているのかもしれない.

2008年12月13日土曜日

ラップだったなんて

 『俺ら東京さ行ぐだ』という歌謡曲がある.吉幾三がもう 20 年以上も前に歌って大ヒットした曲だ.この曲のカバーがまたヒットしているらしい.なんでも若手のラッパーがカバーして、それに吉幾三自身も協力しているという.これに関連して新聞の日曜版に面白い話が載っていた.そもそもこの曲の誕生は、吉幾三がスランプで体調を崩して病床にある時に聴いたレコードがひとつのきっかけになっているらしい.友人がたまたま持って来た海外のレコードをなんとなく聴いていて、その時の記憶が『俺ら東京さいぐだ』の作曲の時に甦ったのだという.その時のレコードがラップであったらしい.なるほど、聞き返してみれば『俺ら東京さいぐだ』はラップである.あの頃は、私の知る限りでは『ラップ』という音楽は日本国内では一般的ではなかった.泥臭い演歌だと思っていた曲は、海外の音楽と日本の演歌が癒合した日本産ラップのはしりだったのだ.吉幾三がもし病床でラップの洗礼を受けなければ、日本産ラップの誕生はもっと後になっていたかもしれない.私にも少しばかり似た経験がある.十余年前に腰痛で 2 週間ばかりの入院治療を余儀なくされていたとき、ひょんなことから病床でマイルス・デイビスのトランペットの演奏を聴いて、突然ジャズにはまってしまった.それまで、ポップスや歌謡曲にしか興味のなかった私にとっては、ある日突然ジャズが空から落ちてきたような感じだった.新鮮な経験だった.どうも、ひどく深刻ではない病床にある時というのは、心が白紙に近い状況、いろいろな情報を吸収し易い状況を得易い傾向があるのかもしれない.入院の心境を日常生活のなかで作ることができたら、素晴らしいと思う.でも、入院はしたくない.

2008年12月12日金曜日

ドクターエル・シート登場

 長い時間事務椅子に座ってデスクでの作業をしていると、腰が辛くなる.以前腰痛で苦しんでからは、座布団を二枚折りにしたものに細い枕をはさんで椅子の座面の後半分に当てがって、要するに座面が前傾するように工夫していた.先日、JAF MATE という 日本自動車連盟 (JAF) の月刊誌を見ていたら、巻末のショッピングコーナーに、座面を 6 ° 前傾させる座布団である『ドクターエル・シート』というのが掲載されていたので、購入してみた.
http://www.jafservice.co.jp/shoji/lineup/product/08_12/06.html
本体を折り畳めないためにずいぶんと大きな箱で届いたが、40 cm x 35 cm の大きさで、両面の硬さが異なっていて、好みで硬軟を使い分けることができる.試してみると、大変に座り易くて、快適だ.二つ折り座布団のような不安定感や違和感が全くない.自然な感じで背中がスッと伸びて、心地が良い.これは、良い買い物をしたかもしれない.

2008年12月11日木曜日

ワカメ蒔き完了!

 暖かで波も穏やかな、よい日和となった.近隣の漁師たちは、午前中のうちからワカメ蒔きを始めた.毎シーズン鍋田の入江に 5 本、大浦の入江に 5  本のロープが張られる.ロープの両端はアンカーで海底に固定してある.海面直下に張るロープ 1 本の長さは通常 160 m で、20 m 間隔でオレンジ色の浮玉が取り付けられている.浮玉にはさまれた 20 m の部分をマスと呼ぶので、1 本のロープには 8 マスあることになる.鍋田と大浦では若干環境が異なるので、不公平がないように毎年場所を入れ替える.我々のロープは今年は鍋田側だ.我らのグループのワカメ巻きスタートは午後からで、 3 名の技術スタッフと大学院生の I さんが 2 隻の小舟に乗り分け、2 チームで長いロープの両端からワカメの種糸を巻き付けていった.仕事の時間は 1 時間半ばかりで、この作業を初めて体験した I さんは笑顔で帰還した.船上作業はずいぶんと楽しかったようで、陸番だった私も一安心した.これで今年もワカメが育ち始めて、私の今シーズンの仕事が始まる.

2008年12月10日水曜日

フグとマンボウとペンギン

 魚のなかでもフグの仲間は特別に奇妙な泳ぎ方をする.多くの魚は尾びれを使って主な推進力を生む.ところがフグの仲間では背びれと尻びれが推進力を生み、尾びれは舵取りを行うに過ぎない.しかも、この背びれと尻びれの動かし方が不思議である.上下のひれを同じ方向に倒しながら進むのだ.フグでは注意して観察しないとこの動き方を認めにくいのだが、フグの仲間で最も大型の魚、マンボウでは、背びれと尻びれが上下に大きく突出しているために、右に左に上下のひれを倒しながら泳ぐ姿を観察し易い.水族館で飼育されているマンボウのこの泳ぎ方を見ていると、ずいぶんと不格好で効率が悪いように思えてならなかった.ところが、2 ヶ月前に発表された論文によると、マンボウのこの泳ぎ方は、ペンギンの羽ばたき遊泳法と全くいっしょと考えてよいらしい.
http://www.plosone.org/article/info:doi/10.1371/journal.pone.0003446
要するにペンギンが横になって泳いでいる状態がマンボウの遊泳であって、決して非効率な泳ぎ方ではないようだ.かなりの速度も出るらしい.生物を見る時に動きが左右相称だと安定したものに見えて、安心感がある.これが横倒しになっているだけで、奇妙に思えるという、そのことも人の感覚として面白い.

2008年12月9日火曜日

夜の高速バス

 今朝の講義のために昨夕 6 時半に下田を出て、東京駅に午後 9 時過ぎに到着した.大学構内の宿泊施設に向かうには、秋葉原に出てつくばエクスプレス (TX) に乗ってつくば駅で降り、駅前のつくばセンタ−からバスで大学に向かうのが通常である.しかし、この時間に秋葉原に向かって TX に乗ると、つくば着が 10 時をだいぶまわって、つくばセンタ−から大学までのバスをつかまえられなくなる.そうなるとタクシー利用を余儀なくされることになりそうだった.平素ならバス定期券で行けるところをひとり乗りタクシーで行くのは浪費である.そこで久々に東京駅発筑波大学行きの高速バスを利用した.最近、筑波大学から東京へ向かう上りは『上り専用回数券』による大幅割引があるために頻繁に利用していたが、下りにはメリットがなかったので、しばらく遠ざかっていたのだ.しかし、つくばセンタ−まででなく大学まで運んでくれるというのは、今回は大きなメリットだった.だいぶ機能的な感じに様変わりした八重洲南口のバスセンターで午後 9 時 40 分発のバスに乗ることにした.発車は 5 番線からで、午後 9 時 25 分くらいに行ってみると巨大な夜行高速バスが停まっていた.青森行のラ・フォーレ号で、私のすぐ前では 20 代半ばくらいのカップルが別れを惜しんでいた.静かな感じの細身の女性は、男性とつないでいた手を解くと、可愛らしいバッグを抱えて青森に向かってバスに乗り込んだ.一方、手に包帯を巻いた生真面目そうな職人風の男性は、女性が乗り込んでカーテンの陰に姿が見えなくなったあとも、近くの柱に寄りかかって発車まで見送っていた.何かしら物語が埋もれていそうな様子のふたりで、映画のワンシーンのようだった.次にやってきた筑波大学行きの高速バスは、青森行の立派さに比べて何だかずいぶんとお粗末に見えて、ボディサイドのつばめマークが少しばかり寂しかった.車内はつくば方面への帰宅客であっという間に一杯になった.仕事帰りで疲れて眠る人々が多く、まるで寝台バスである.夜の下り新幹線こだま号の車内と同じような雰囲気だ.忘年会シーズンでもある.無理からぬことだ.それでも、桜土浦で高速道路を下りると皆眼をさまし、ひとりふたりと順次自宅の最寄りバス停で降りてゆき、最後に大学近くで降りたのは私だけだった.帰宅する人々の中で、ひとりだけ出勤するという状況に置かれるのは、ずいぶんと寂しかった.

2008年12月8日月曜日

ワカメそろそろ

 12 月に入ると『ワカメ蒔き』の時期を窺うことになる.毎年概ね 12 月の第 2-3 週に幼胞子体を付着育成した『種糸』と呼ばれる凧糸を海面直下に張った太いロープに巻き付ける作業を行う.今季の養殖ワカメの育成スタートとなるわけだ.ボートに乗った 2 人のひとりがロープを支え、もうひとりが種糸を巻き付けてゆく.ロープの撚りの隙間に種糸が埋まらぬようロープの撚りと反対向きに巻いてゆく.この時、種糸の幼ワカメの密度を見ながら全体が過密にならぬよう、かといって粗にならぬように加減するのが難しい.ワカメは高水温に弱い.18 ℃を超す海水温が続くとまともな生育が望めなくなる.近年、年によっては 12 月に不規則に海水温が跳ね上がることがあって、最近では一昨年は眼も当てられないほどの悲惨な不作となった.海水温が十分に下がったと思って育成を始めたあとで高水温にやられてしまったためだ.ことしは良い具合に寒い日が続いて、海水温も下がってきたようだ.ワカメにとって良い冬となることを祈りたい.

2008年12月7日日曜日

あらら忘年会

 私は昔からそそっかしいのだが、最近とみに怪しげな間違いをするようになって、まずいのである.昨日土曜日は毎年 12 月の第 1 土曜に開かれる W 先生の忘年会だったのだが、完全に失念していて、夜もだいぶ更けてから研究室の学生諸氏に言われてようやく思い出した.慌てて駆けつけて 2 次会には顔を出すことができたのだが、まことに面目なかった.今年は、元々この週末に私が予定していたイベントと重なっていたために、いちどは出席を諦めたのだ.しかし、イベントが中止になって参加できるようになったのに、前の記憶が更新されていなかったようだ.しかも午前の巣箱作りイベントに参加が適ったことでホッとして『もう今日はこれでおしまいだ』という強力な刷り込みができていたらしい.これ以上大間違いをしでかさぬように、気をつけねばならない.

2008年12月6日土曜日

鳥の巣箱を作る

 娘を連れて鳥の巣箱作りに出かけた.東京大学樹芸研究所で行っている自然観察講座のひとつで、まず鳥の観察を行ってから、巣箱を自分たちで組み立て、最後に巣箱の掛け方や管理の仕方を学ぶという内容で実施される予定だった.ところが、私たちは早とちりで樹芸研究所に向けて出かけてしまい、午前 9 時前に到着しても誰も姿が見当たらず、女房に行き先を再確認したところ、樹芸研究所の青野研究林というところで実施することになっていると伝えられて、慌てて向かった.しかも青野まで出かけてから場所が分からなくて、山の中を走り回ったあげく、結局 1 時間も遅刻してしまった.方向音痴の本領発揮となってしまい、まことに恥ずかしく、研究所の方々には大変に申し訳なく思った.私たちがようよう到着した時にちょうど巣箱づくりが始まっており、鳥の観察をスキップしたかたちにして参加させて頂いた.ひさしぶりに鋸とハンマーを使っての工作は実に楽しかった.西風は強かったが、空は抜けるように青く、森の空気が心地よかった.巣箱にはペイントマーカーで自由に絵を描かせてもらうこともできて、鋸引きや釘打ちも手伝った娘は、完成した巣箱を飾るのにも夢中になっていた.持ち帰った巣箱は、昼食後にさっそく庭のシュロの木に取り付けてみた.巣箱に鳥が入るのを待つのは、これから毎日の楽しみになりそうだ.我が家族にとって、冬の楽しみが 1 つ増えたことになる.素晴らしい青野の森をまた別の季節にも訪ねてみたい.

2008年12月5日金曜日

寒冷前線の訪問

 日本列島の上に巨大な寒冷前線が横たわり、本州の上をなめるように通過していった.午前中は曇天で暖気の中にあって奇妙なくらい暖かだったが、午後にはいきなり強風が吹き始め、雷とともに短時間猛烈な雨が降った.そして急に冷え込み始めた.何だか教科書的な寒冷前線の訪問だった.何も知らずに空を仰いでいれば、ずいぶんと急激で不思議な天気の変化だと思うはずである.天気予報がとんと当たらなかった昔は、私たち個々人にも天気予報にチャレンジする資格があった気がする.中学の時、授業だか理科クラブだかでラジオの気象概況を聞き取りながら、天気図を描いていたことを思い出す.『モッポ』という名が妙に耳に残っている.等圧線の引き方がめいめいで違って、仲間たちの中でもいろいろな天気図が生まれた.大学時代には谷川岳を 2 週間ばかりも縦走しながら、天気を気にしつつ行動した.チームの気象係担当の時はテントの中、ランプの灯りの下で天気図を描いていた.いまや、ほとんどリアルタイムの衛星画像をチェックしながら、10 分ばかりあとの天気でさえ正確に予測できる時代になった.そして、空の不思議さが薄れ、天気に挑む甲斐がなくなった.

2008年12月4日木曜日

昔のカメ

 鳥は恐竜の末裔であること裏付ける化石が続々出てきて、中国は考古学研究の一大拠点となってきたが、今度はカメの祖先の化石が出て来たらしい.現生カメの甲羅の形成過程について、肋骨由来説と皮膚由来説があるらしいが、海に暮らしたと考えられる祖先カメの化石には背中の甲羅がなく、腹側のみが肋骨の発達によって形成された腹甲に覆われていたという.これで肋骨由来説が圧倒的に有力になったようだ.研究者のコメントでは、下から攻撃してくる敵に対してまず腹甲を作って防御したのだろうということだ.現生の海の魚でもいわゆる青魚の背側が青く腹側が銀色なのは、上方からの敵に対しては海面の青、下からの敵に対しては太陽光の反射を模した銀色にカモフラージュしていると考えられている.全身が銀色のヒイラギという魚では腹側を昼間に発光させて下からの敵に対する防御策とするという話を聞いたことがある.古代カメがまず下からの敵に対する防御策をとったということは、上から狙われる可能性がより低かったことを示すのだろうか.興味深いところである.それにしても、腹甲だけに覆われたカメというのは、いかにも滑稽だ.海に進出した哺乳類の中で鯨類はかなり洗練されたフォルムだが、イタチなどから分化してからの歴史がはるかに浅いラッコでは、海面で暮らす生活の仕方も奇妙だし、形もかなり滑稽である.あの可愛らしさは中途半端な適応進化の滑稽さに起因するところが大なのかもしれない.そのような意味では、進化途上の祖先カメはかなり可愛らしい動物であったのかもしれない.

2008年12月3日水曜日

冷蔵庫の付喪神

 エコブームが押し寄せてきて、エコでない冷蔵庫を排除しようということになったようで、冷蔵効率の悪い昔の冷蔵庫を探し出して新しいものに替えようという動きがある.大学でも購入後 10 年以上経った冷蔵庫のチェックが行われた.驚いたことに、あまり人が頻繁に利用しない部屋の薬品保管用冷蔵庫に 38 年経っているものがあった.物を一定以下の温度に冷やすという機能に特化していたから長く使われて来たのだろうが、こんなに長い期間故障せずに動き続けて来たのは驚異的だ.近頃の家電製品やパソコンではこんなことは考えられない.まず機械として10 年を超えて使い続けられるものは少ないし、動いたとしても機能が時代についてゆかないと、特にパソコンやその周辺機器などは使い物にならなくなる.我が家のプリンタも購入してわずか 2 年ばかりで動かなくなりやむなく買い替えたが、同じくらいの価格で以前はプリンタのみの単機能であったものが、新しいものはスキャナも付いてカラーコピーもできる多機能型だ.こんなものが 1 万円未満で買えるとは驚きだ.物を大事に長く使うよりも、どんどん買い替えてゆく方が得だし、企業側もそう仕向けているのは自明である.より電気効率の良い製品が開発されて、それにあわせて旧製品をどんどん買い替えてゆくのが当代のエコなのだろう.畑中恵の『しゃばけ』シリーズにはいろいろな付喪神が出てくる.100 年も大事に使われたものには神が宿るということなのだが、わが職場の冷蔵庫は神になる道を近々断たれそうだ.

2008年12月2日火曜日

ドアの手提げ袋

 筑波キャンパスでの朝の講義が終わって、午前中からお昼過ぎまで遠隔地センター教員共用のオフィスに居た.すると 1 時間に 1 回くらいの頻度で、ドア前で足音が止まるのにノックはなく、ドアを引っ掻くような音がして足音が遠ざかってゆくことが繰り返された.最初は奇妙に思ったが、すぐに気がついた.学生がレポートの提出に来ているのだ.筑波大学は3学期制なので、3 学期の始まった今頃が 2 学期の成績評価時期である.11 月末に試験を行うこともあるが、レポート提出で成績評価を行うこともある.レポートの提出先は事務室のレポートボックスか教員のオフィスである.しかし、教員のオフィスは不在時には鍵がかかっているので、先生方はドアの表に授業名を書いた手提げ袋をぶら下げておくのである.我々のオフィスにも M 先生の講義レポート用の手提げ袋が下げられていたのだ.足音とドアのカサコソ音の正体はレポート提出の学生の来訪を知らせていたのである.教員のオフィスの連なるフロアでドア表にぶら下がる手提げ袋はこの季節のキャンパスの風物詩である.

2008年12月1日月曜日

新聞のページ

 インターネットが世界を覆うようになった世の中でも、毎日届く新聞は私にとって最も大切な情報源のひとつだ.Web は気の向いた時にしか覗かないし、何かを見たり調べたりする時はどうしても検索の範囲が自分の興味のある特定分野に偏ってしまう傾向がある.新聞は忙しかろうが何だろうが否応無しに毎日朝晩届く.数日放っておくと「早く読んでくれよ!」と山をなして脅迫してくる.新聞の提供する毎日少しずつの情報も馬鹿にはならない.例えば新聞の下の方に載る新刊書の広告をまめにチェックしていれば、久々に東京の大きな書店に出かけて新刊書のコーナーを見たときでも、ある程度目に馴染んだタイトルが並んでいるので、情報のギャップにびっくりしなくて済む.書店の新刊書コーナーに並ばないような地味な本を、新聞の広告から見つけ出すこともある.新聞には自分が元来興味をもっていること以外の情報も満載されていて、知らぬうちに眼を通していることも多いため、知識の偏りを補正してくれる気もする.1 ヶ月ばかり前のこと、混雑する新幹線の車内で、3 列シートの通路側に座っていたら、通路をはさんで向こう側の 1 列前の 2 列シートの通路側、私から見て左前のシートに座っていた 50 歳代くらいの品の良い感じの女性がおもむろに朝日新聞の朝刊を取り出して拡げて読み始めた.年配の女性が電車の中で新聞を拡げて読んでいるのをあまり見たことがなかったので、ちょっと新鮮な風景に思えてしばらく様子を見ていたら、新聞の 3 面記事から開いて後戻りするように読み始めた.私も同じような順番で新聞を読むことが多いので、ちょっと親近感を抱いてしまった.池上彰著の『新聞勉強術』という本によると、人は新聞の左ページに眼が行きがちなので、新聞記事というのは奇数ページにより重要な情報を載せるそうである.また、同じページであれば、左上ほど大切な情報が載っているらしい.だから、急いで新聞を斜め読みする時は、左のページ中心に左上から眼を走らせれば良いので、そのためには後ろから開いてゆくのは、けっこう効率の良い方法なのである.新聞がどんなつくりになっているのか、考えながら読み直してみるのも面白いものである.

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