2008年11月2日日曜日
多数の小さなヤシガニ
吉村昭の『深海の使者』は、第2次大戦中に日本とドイツの間を行き来した伊号潜水艦についての話である.この小説のちょうど真ん中あたりに、海の生物についての興味深いエピソードがある.そこには、マレー半島の近くでイギリス潜水艦に伊号三十四潜水艦が撃沈される顛末が描かれている.沈没する潜水艦から辛うじて脱出した乗組員の数人が、陸を目指して泳いでゆく.その場面で、潮流に抗いながら必死で泳ぐ人々の皮膚を海面の浮遊物に付着した多数の小さなヤシガニが絶え間なく刺した、と語られているのである.筆者は綿密な取材をなさる方なので、この話は実際に命拾いした脱出者に直接取材して得たエピソードであろう.確かめようのないことなので、ここからは全て私の想像であるが、多数の小さなヤシガニが海洋を漂流するというのは、まずありえないことだ.海を漂うヤシガニの幼生はむしろエビのような形で、ヤシガニ型ではない.幼生期から着底した初期は海底で貝殻を背負って歩き、海表面にはいない.ヤシガニ型になる頃には陸上生活に移行するし、体もかなり大きくなっているはずである.おそらく、漂泳する人々を刺したのは『ヤシガニに似た小さな生物』だろう.思い当たるのは、カニのゾエア幼生やメガロパ幼生である.漂流物に多数付いていたもので、容易に視認できるほど大きな幼生だとするとイボショウジンガニあたりの幼生だろうか.カニのゾエア幼生はチンクイとかチンクイ虫と呼ばれて、ちくちくと人を刺すことから、サーファー達に嫌われている.これらが『小さなヤシガニ』の正体ではないだろうか.
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